『安倍晴明』といえば「陰陽師」✨
数々のドラマや映画、文献と大人気の「人神(ひとがみ)」と呼ばれる実在したお方です。
安倍晴明は、平安時代の陰陽師。
「晴明」を『せいめい』と読むことが多いですが、特に「これ!」という正解はないようです。
吉凶を占ったり、陰陽道の祭祀を行なったり宮廷で活躍。
病気や物怪(もののけ)の調伏を行ったりしていたそう。
職神(精霊の一種)を使って霊災の除去など、多才さを発揮していました。
鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏流土御門家の祖。
官位は従四位下、播磨守。
そんな『安倍晴明』から琴が聞いたお話✨
世の中は流動的に動くもの。
時が流れている以上、止まることはない。
人の呼吸が止まれば死を意味するのと同じように『時』は止まることなく流れ、全ての命も生きるために『時』を刻む。
それは霊魂(たましい)とて同じこと。
霊魂になったからといって止まることはない。
ただ、本来行くべき場所に行かずに留まった霊魂の『時』は止まったまま。
何年も何百年もその場に留まり、人に被害被る存在になる。
元は才も智慧もある人間だったことを皆を含め自らも忘れている。
才も智慧も誰もが持ち合わせている。
どんなに才があってもこの世のもの。
どんなに智慧があってもこの世だから役立つもの。
だから生きている間にやりたいことをやる。
思うことを言う。
自らの智慧で考え、知り、分かち合う。
言葉が使える 言葉が通じる 思いを通わす
その場があるから役立つ。
そこには才も智慧も無ければ、場を乱すだけ。
自らの才と智慧を知らぬが故に、知らぬことで迷惑となる。
命ある時に出来なかったことは、霊魂になった時には叶わない。
故に、生きるということは自らを知り、知るからこそ調和を取り共に『生きる』時を刻む。
その場に立ち止まることもあるだろう。
だが、常に時は止まることなく進んでいく。
心のまま思いのまま生きて進む。
心から思い願おう。
ということです✨
遠慮も大切ですが、心からの言葉と心地よい思いで生きていくことって大事ですね✨
『死神』と聞いたら、「死を招く」「魂を抜かれる」など、あまり良いイメージはありません。
ですが、『死神』も神様なんですよ😊
『神』と付きますからね🤣
単純に「神」と付くから神様認定してますが、魂についてはエキスパート的存在です。
琴の「土地浄化施術」に来てくれる神様の「死神」にはちゃんとしたお仕事があります。
それは、人の命を狙っているとか取っていくというものではありません。
人は「想念」というものを持っています。
そしてその想念は、時には恨みつらみとなることもあり、知らないうちに土地に根付き、地縛霊となることもあります。
ごく最近の念は浄化で無くなることもありますが、古くからの念はなかなか気づきにくく、ほんのカケラの念が何かのかたちやキッカケで大きな念になり、その土地に根付く念に引き寄せられた霊が居付き、地縛霊になることもあります。
そのような、天に上がれなかった霊や念、未練から上がることを拒否した魂や地縛霊となった魂などを土地から離し、連れていってくれるのが死神です。
そんな死神から琴が聞いたお話✨
魂の存在を知らないものたちが肉体を離れ霊になった時、初めて自分の本来の姿を知る。
その魂は、素直に天に上がるものもあれば、またしがみつくものもある。
人間だった時の思いや感情を、慣れ親しんだ地に置いていくもの。
強欲が祟り、人間が住む世界から離れることを拒否し、生きている時と同じ思いで守って来たものを死して尚守ろうとするもの。
離れがたい思いから、人にすがり取り憑くもの。
これだけに限らず。
これら皆の生きている時の想念が土地に根付き、その地に住む者、関わる者全ての人間に影響する。
神はそれらを浄化に導き昇華、または改心させるのが役割。
ただ、我は違う。
さまよう魂を救うのではなく、エゴ欲で我が姿が醜く救い難いものになった姿から、改心した魂を天に導く。
または、悪行から改心を恐れている霊や魂を改心の場に連れて行く。
これは、魂にとっては良いことであるが、霊にとっては脅威でしかない。
その脅威がもたらす恐れは、人間界では「死」と同じである。
このようなイメージから死神として、恐れられているのであれば、それも良かろう。
恐怖は自らの命を守る。
天寿全うしてこその命。
その命、我に刈り取られたくなくば、どんな苦労苦しみも乗り越えるだろう。
生きる心意気が見えた時、我はそこに住む者の魂に手を貸す。
赤子がまっさらな姿で産まれるよう、そこで生きる者の思いが悪露(おろ)無しの生粋のものであれば、土地もそのように整えることが道理。
死と全うに向き合う者の生き様や想念に淀みが無ければ、死は恐れではなくなる。
それは既に生きる覚悟がある証。
魂に歪みや迷いが無い証。
今回その証をしかと見届けた。
しかし、覚悟が揺らぎ、死を恐れるあまりに欲深くエゴの思いで道理を崩すことがあれば容赦はせぬ。
思いのタガが外れ人としての道を外した時、今日受け取った全ての念と悔恨にまみれた悪しき霊魂共を再びこの地に戻す。
その時、この地に住まう者の命、貰い受けに来よう。
これがお主らの知っている死神の姿。
覚えておいてもらおう。
とのことです😱
色々難しいけど、とりあえず生きます😅
昔々、ある所におじいさんとおばあさんがいました…
から始まる昔話。
その昔話は民話のひとつですが、【土地浄化施術】において来てくれた方の中で、『花咲か爺さん』がいます。
ただ、本物の花咲か爺さんか?というと定かではありませんが、どう見ても花咲か爺さんにしか見えない神様が来てくれました。
今日はそんなお話✨
この『花咲か爺さん』
出会いは、とある場所にある日本庭園です。
見つけたのは琴ではありませんが、ある方がその場所に行った時に「どう見ても花咲か爺さんにしか見えないのがいる!」と教えてくれ、連れて行ってくれました。
最初は目を疑いましたが、どう見ても『花咲か爺さん』にしか見えないお姿。
そのお爺さんに「あなたは花咲か爺さんですか?」と話しかけましたが、ニコニコしてるだけで何も答えません。
このお方は、その場所を守る土地神様です。
名も無い神様ですが、神は神✨
この神様を琴は『花咲か爺さん』と呼び、その場に行くことがあれば必ず寄ります🤣
そんな「花咲か爺さん」と呼んでいる神様から琴が聞いたお話✨
近くに来た時、また今回も来ると思おておるがいつも会いによう来る。
それもまた楽しみになっておるぞ!
そして、今日はとても大切な日。
今回はわしが出向いたというわけじゃ。
約束だからの。
前回来た時に言うてたじゃろ?
「大切な物事があった時。それもそなたが大切にしている者が助けを乞うているときは出向くぞい」と。
約束は約束。
思いは繋がっておる。
それは人も同じこと。
これが「縁」じゃな。
縁とはどう結ぶかではなく、そこにはちゃんとした理由がある。
人との縁もそうじゃが、物や土地など様々なものに縁はあるのじゃ。
そこには『大切』にするという思いと『大事』にするという思いが重なることで引き合う思いが『縁』になる。
『大切』とは、粗末にしない、存在が大きいこと。心に残る大きな思いじゃ。
『大事』とは、価値があること、かけがえのないものとして認める。心が豊かになる糧となるものじゃ。
どちらが欠けても縁は結ばれぬ。
どちらもあっても思いがひとつにならなければ縁にはならぬ。
ひとつになるということはなかなか難しい!とはこういうことだ。
二つがひとつになったからわしはここに来た。
さてさて、そなたたちの仕事をゆっくり見せてもらおうかの。
いつも持っている思いで、皆の幸せを願い精一杯やることじゃ。
というお話のもと、施術は始まりました。
ありがたいお話を聞くことが出来たのと、いつも会いに行ってよかった!という思いで心が嬉しくなりリラックスして施術が出来たのは、いうまでもありません。
ご縁って大切。
大事にしたいですね❣️
というお話でした✨
『日本武尊(やまとたけるのみこと)』
まだ、日本という国がなかった時代。
国生みの神イザナギたイザナミによって多くの神々が誕生しました。
彼らにはそれぞれの役割や力が与えられ、日本国を統一していきます。
そのひとつに日本武尊がいます。
第12代景行天皇の皇子で、この時代の戦果は著しく、ピンチが迫っても数々の機転で乗り越えたため、「難局打開の神」として英雄視されました。
そんな『日本武尊』に琴が聞いたお話✨
世の中の規律が乱れておる。
だが、その規律を見出すものにも自我があり、それがプライドとしてその本人を動かす。
自分の考えひとつでいく通りの結果を出す。
それが自らの結界を作り、自分というものを守る。
これがプライドだ。
プライドの原点は、幾多の人々の思いを無下にすることなく行動することは、自らの可能性の試しになることを知った時。
その試しを経験することで、自分というものの限界を知る。
知ることは良いことと言うが、やり過ぎは身の毒になる。
これを知った時には、既に身体は限界を迎え瀕死の状態になっていることが多い。
そして、人は限界を迎え乗り越えられた時。
それが過信となり勘違いをする。
まずは自分を知ること。
そして、人の思いを我が身の如く受け止め、その願いを叶えるために身を粉にして尽くすことは、人のための限界か自分のための限界かを見極めることがなければ身の破滅につながる。
何事も我が身を見つめ、断ることも我が身守る手段といえよう。
勘違いの向こう側にある限界に富はない。
幸せになりたければ、過信を捨てよ。
そして本気でやりたいと思うことに我が身を捧げること。
これが自らの限界を超えた実りを得ることになろう。
プライドを超えた本当の自分でやりたいことをやり、断ることを躊躇せず自分らしく生きていける。
ということでした✨
プライド…
知らないうちに自分の心の内側に芽生える限界。
限界を知るのは良いと思いますが、必要の無いものを大切に持ちながら、本当の自分が見失われていくのは本心ではないですね💦
頼まれたら断れず、また自らを過信してこの世を去った日本武尊だからこその言葉と受け止め、まだ知らない自分を探そうと思います✨
今回は、神様から離れて「妖怪」と呼ばれる『河童』のお話😅
なぜ【土地浄化施術】に河童がいるかというと、河童は邪念や邪気を消す天才です。
水を好み水を扱うという意味では、浄化に長けている生き物。
ですので、特に土地浄化施術には来てもらうことが多いですが、いつも来る河童は一匹(一人?)
こういう点では、みんなが知っている河童のお話と琴が知っているお話は少し違います。
確かにいたずら好きで人間を騙して悪いことをしたりという伝説はあるようです。
今回の『河童』は、悪いことをしたことの償いをするためにお釈迦様から言われて来た河童のお話です。
河童は元々自分の居場所をとても綺麗にする性格で、少しでも汚れていたりお水が濁っていたりすると、周りには目もくれずひたすらお掃除に明け暮れます。
家があれば家を壊し、自分のテリトリーに何か邪魔な物があれば手当たり次第ゴミ扱いをします。
そこには人間の命にも関わるような酷いこともあり、そんな河童の行いに目をつぶれなくなったお釈迦様が言いました。
お釈迦様「なぜそなたは暴れる?周りを見てみよ!泣いている人間がいるでは無いか?」
河童「わしの場所に家を建てるのが良くない」
お釈迦様「では家では無く仲間がいたらどうする?」
河童「わしに仲間などおらぬ」
お釈迦様「では子供はどうじゃ?お主は子供と遊ぶこともある」
河童「遊ぶ子供は決まっておる。心のきれいな子供としか遊ばん」
お釈迦様「では、そこで泣いている子供はどうじゃ?そなたが遊んでいた子供では無いのか?」
河童「どの子供じゃ?そんな子供はおらぬ」
お釈迦様「ほらそこで泣いておるじゃろ。泥だらけで汚いなりをしているが、そなたが遊んでいた子供に間違いなかろう。」
よくよく見るとそこには壊された小屋があり、その小屋の下敷きになって息絶えた犬がいました。
その犬を必死で助けようと泣いている子供が1人。その子供は泥だらけで顔がわからないくらい酷い有様でした。
河童は、泣いている子供が嫌いでした。
うるさいしわがままだからです。
そして、犬は河童の天敵です。
河童にしてみたら犬が死のうがそんなことはお構いなし。
河童と遊んでいたという子供は、いつもニコニコしていて河童を毛嫌いすることなく、貧乏ながらにいつも身綺麗にしていて、食べ物を河童にくれる時もちゃんと手を洗い渡してくれたり、何よりも素直で優しく他の人間の子供たちと同じく、仲良く接してくれる心優しい子供でした。
お釈迦様の言葉が気になり泣いている子供のそばに行ってみた河童が見た物は、息絶えた犬と汚い子供。それからその犬をかばおうと家の下敷きになっている人の手。
河童はその手に見覚えがありました。
いつも河童と遊んでいた時に子供を迎えに来ていた優しい手。
河童もその子供の親の優しさに憧れていました。
いつも河童と遊んでいても、河童を毛嫌いせずお礼を言ってくれていた優しい声を思い出しました。大人でも心のきれいな人間がいるのだと初めて思えた優しい手の持ち主。
だから遊んでいる子供の心もきれいで一緒にいられるのだと、人の心というものが少しわかってきたのもその子供の存在と憧れの手の持ち主があるからと悟り始めてきていたところでした。
そして河童は自分の目を疑います。
自分が悟り始めていた憧れの手の持ち主が明らかに小屋の下敷きになり、そして仲良く遊んでいた子供が大切にしていた犬が生き絶えています。
そこに泣いている子供。
犬は大嫌いでしたが、優しい心の持ち主の犬の顔は覚えています。
正に目の前で息絶えた犬がその子供の飼い犬で見覚えのある手が動かずそこにありました。
そう。
顔まで泥まみれにして泣いて助けようとしているのは、仲良く遊んでいた子供だったのです。
実は、崩れた建物は子供の父親が、我が子と遊ぶ河童が嫌で、河童をその場所から追い出すためにワザと建てた小屋でした。
そして河童の嫌いな犬をそこに置き、子供と河童を引き離すために仕組んだことだったのです。
河童は決まって月の何日か村から姿を消すことがありました。
それを知っていた子供の父親は、河童がいないのをいいことに、河童の住まいである場所に小屋を建てました。もう少しで出来上がるところに河童は帰って来たのです。
そこで河童は建てられた小屋を見て、人間の意地悪と取り、頭に血が上り衝動的に壊したのです。
その時、その小屋には子供の母親と犬がいました。母親は父親の魂胆で河童の居場所が無くなることを不憫に思い、河童の寝床や食べ物を用意していました。そして、帰ってきた河童が犬に驚かないようにと犬を小屋から連れて帰ろうとした時の出来事でした。
一緒に来ていた子供は幸いなことに、先に小屋から出ていたので助かったのです。
そんなこととはつゆ知らずの河童。
気づいた時には大変なことになっていました。
河童は子供のそばに近づき立ち止まりました。
子供は河童の方を見て言いました。
「河童と仲良くならなきゃ良かった。おとうの言う通りだった。おかあが死んだ。犬も死んだ。あんたなんか大嫌い!」
あんなに優しかった子供から聞いた言葉は、耳を疑うものでした。
その言葉を聞いた河童は、居ても立っても居られなくなりその場から逃げました。
どこまでもどこまでも、力尽きるまで逃げました
。いくつもの山を越え、見たことがないところまで来たところで力尽きました。
その時にお釈迦さまが来て言います。
「どうじゃ、お前のしたことは。」
河童は残り少ない命で答えます。
「もう二度と人間の前には現れません。ただ、あの子供には申し訳ないことをした。あの優しさにはもう二度と会えないと思うと悲しい。自分の出来ることはありますか?」
お釈迦さまは答えます。
「そなたは自分のこととはいえ、邪気邪念を消す才能がある。子供と、その親と可愛がっていた犬の命の代わりに良い事をすると言うなら私が面倒を見よう。その代わり、自らの欲とエゴを持つことで、この地に残り、邪念邪気にまみれた世界で今までの所業許されることなく暮らすことになるがよいか?」
河童は答えます。
「邪念邪気にまみれた世界で暮らすのはまっぴらごめん。お釈迦さまの言う通りにします。」
お釈迦さまは言いました。
「では、私のお遣いとして人のために目に見えない邪気邪念の掃除をしてもらうとしよう。そなたの心を信じよう。」
こうして河童はお釈迦さまのお遣いとなりました。
それからというもの、河童は人間の前から姿を消し、二度と目の前に現れることはなくなりました。
というお話です✨
鬼子母神に続く第二弾。
琴の神様から聞いた昔話でした😊