『日本武尊(やまとたけるのみこと)』
まだ、日本という国がなかった時代。
国生みの神イザナギたイザナミによって多くの神々が誕生しました。
彼らにはそれぞれの役割や力が与えられ、日本国を統一していきます。
そのひとつに日本武尊がいます。
第12代景行天皇の皇子で、この時代の戦果は著しく、ピンチが迫っても数々の機転で乗り越えたため、「難局打開の神」として英雄視されました。
そんな『日本武尊』に琴が聞いたお話✨
世の中の規律が乱れておる。
だが、その規律を見出すものにも自我があり、それがプライドとしてその本人を動かす。
自分の考えひとつでいく通りの結果を出す。
それが自らの結界を作り、自分というものを守る。
これがプライドだ。
プライドの原点は、幾多の人々の思いを無下にすることなく行動することは、自らの可能性の試しになることを知った時。
その試しを経験することで、自分というものの限界を知る。
知ることは良いことと言うが、やり過ぎは身の毒になる。
これを知った時には、既に身体は限界を迎え瀕死の状態になっていることが多い。
そして、人は限界を迎え乗り越えられた時。
それが過信となり勘違いをする。
まずは自分を知ること。
そして、人の思いを我が身の如く受け止め、その願いを叶えるために身を粉にして尽くすことは、人のための限界か自分のための限界かを見極めることがなければ身の破滅につながる。
何事も我が身を見つめ、断ることも我が身守る手段といえよう。
勘違いの向こう側にある限界に富はない。
幸せになりたければ、過信を捨てよ。
そして本気でやりたいと思うことに我が身を捧げること。
これが自らの限界を超えた実りを得ることになろう。
プライドを超えた本当の自分でやりたいことをやり、断ることを躊躇せず自分らしく生きていける。
ということでした✨
プライド…
知らないうちに自分の心の内側に芽生える限界。
限界を知るのは良いと思いますが、必要の無いものを大切に持ちながら、本当の自分が見失われていくのは本心ではないですね💦
頼まれたら断れず、また自らを過信してこの世を去った日本武尊だからこその言葉と受け止め、まだ知らない自分を探そうと思います✨
今回は、神様から離れて「妖怪」と呼ばれる『河童』のお話😅
なぜ【土地浄化施術】に河童がいるかというと、河童は邪念や邪気を消す天才です。
水を好み水を扱うという意味では、浄化に長けている生き物。
ですので、特に土地浄化施術には来てもらうことが多いですが、いつも来る河童は一匹(一人?)
こういう点では、みんなが知っている河童のお話と琴が知っているお話は少し違います。
確かにいたずら好きで人間を騙して悪いことをしたりという伝説はあるようです。
今回の『河童』は、悪いことをしたことの償いをするためにお釈迦様から言われて来た河童のお話です。
河童は元々自分の居場所をとても綺麗にする性格で、少しでも汚れていたりお水が濁っていたりすると、周りには目もくれずひたすらお掃除に明け暮れます。
家があれば家を壊し、自分のテリトリーに何か邪魔な物があれば手当たり次第ゴミ扱いをします。
そこには人間の命にも関わるような酷いこともあり、そんな河童の行いに目をつぶれなくなったお釈迦様が言いました。
お釈迦様「なぜそなたは暴れる?周りを見てみよ!泣いている人間がいるでは無いか?」
河童「わしの場所に家を建てるのが良くない」
お釈迦様「では家では無く仲間がいたらどうする?」
河童「わしに仲間などおらぬ」
お釈迦様「では子供はどうじゃ?お主は子供と遊ぶこともある」
河童「遊ぶ子供は決まっておる。心のきれいな子供としか遊ばん」
お釈迦様「では、そこで泣いている子供はどうじゃ?そなたが遊んでいた子供では無いのか?」
河童「どの子供じゃ?そんな子供はおらぬ」
お釈迦様「ほらそこで泣いておるじゃろ。泥だらけで汚いなりをしているが、そなたが遊んでいた子供に間違いなかろう。」
よくよく見るとそこには壊された小屋があり、その小屋の下敷きになって息絶えた犬がいました。
その犬を必死で助けようと泣いている子供が1人。その子供は泥だらけで顔がわからないくらい酷い有様でした。
河童は、泣いている子供が嫌いでした。
うるさいしわがままだからです。
そして、犬は河童の天敵です。
河童にしてみたら犬が死のうがそんなことはお構いなし。
河童と遊んでいたという子供は、いつもニコニコしていて河童を毛嫌いすることなく、貧乏ながらにいつも身綺麗にしていて、食べ物を河童にくれる時もちゃんと手を洗い渡してくれたり、何よりも素直で優しく他の人間の子供たちと同じく、仲良く接してくれる心優しい子供でした。
お釈迦様の言葉が気になり泣いている子供のそばに行ってみた河童が見た物は、息絶えた犬と汚い子供。それからその犬をかばおうと家の下敷きになっている人の手。
河童はその手に見覚えがありました。
いつも河童と遊んでいた時に子供を迎えに来ていた優しい手。
河童もその子供の親の優しさに憧れていました。
いつも河童と遊んでいても、河童を毛嫌いせずお礼を言ってくれていた優しい声を思い出しました。大人でも心のきれいな人間がいるのだと初めて思えた優しい手の持ち主。
だから遊んでいる子供の心もきれいで一緒にいられるのだと、人の心というものが少しわかってきたのもその子供の存在と憧れの手の持ち主があるからと悟り始めてきていたところでした。
そして河童は自分の目を疑います。
自分が悟り始めていた憧れの手の持ち主が明らかに小屋の下敷きになり、そして仲良く遊んでいた子供が大切にしていた犬が生き絶えています。
そこに泣いている子供。
犬は大嫌いでしたが、優しい心の持ち主の犬の顔は覚えています。
正に目の前で息絶えた犬がその子供の飼い犬で見覚えのある手が動かずそこにありました。
そう。
顔まで泥まみれにして泣いて助けようとしているのは、仲良く遊んでいた子供だったのです。
実は、崩れた建物は子供の父親が、我が子と遊ぶ河童が嫌で、河童をその場所から追い出すためにワザと建てた小屋でした。
そして河童の嫌いな犬をそこに置き、子供と河童を引き離すために仕組んだことだったのです。
河童は決まって月の何日か村から姿を消すことがありました。
それを知っていた子供の父親は、河童がいないのをいいことに、河童の住まいである場所に小屋を建てました。もう少しで出来上がるところに河童は帰って来たのです。
そこで河童は建てられた小屋を見て、人間の意地悪と取り、頭に血が上り衝動的に壊したのです。
その時、その小屋には子供の母親と犬がいました。母親は父親の魂胆で河童の居場所が無くなることを不憫に思い、河童の寝床や食べ物を用意していました。そして、帰ってきた河童が犬に驚かないようにと犬を小屋から連れて帰ろうとした時の出来事でした。
一緒に来ていた子供は幸いなことに、先に小屋から出ていたので助かったのです。
そんなこととはつゆ知らずの河童。
気づいた時には大変なことになっていました。
河童は子供のそばに近づき立ち止まりました。
子供は河童の方を見て言いました。
「河童と仲良くならなきゃ良かった。おとうの言う通りだった。おかあが死んだ。犬も死んだ。あんたなんか大嫌い!」
あんなに優しかった子供から聞いた言葉は、耳を疑うものでした。
その言葉を聞いた河童は、居ても立っても居られなくなりその場から逃げました。
どこまでもどこまでも、力尽きるまで逃げました
。いくつもの山を越え、見たことがないところまで来たところで力尽きました。
その時にお釈迦さまが来て言います。
「どうじゃ、お前のしたことは。」
河童は残り少ない命で答えます。
「もう二度と人間の前には現れません。ただ、あの子供には申し訳ないことをした。あの優しさにはもう二度と会えないと思うと悲しい。自分の出来ることはありますか?」
お釈迦さまは答えます。
「そなたは自分のこととはいえ、邪気邪念を消す才能がある。子供と、その親と可愛がっていた犬の命の代わりに良い事をすると言うなら私が面倒を見よう。その代わり、自らの欲とエゴを持つことで、この地に残り、邪念邪気にまみれた世界で今までの所業許されることなく暮らすことになるがよいか?」
河童は答えます。
「邪念邪気にまみれた世界で暮らすのはまっぴらごめん。お釈迦さまの言う通りにします。」
お釈迦さまは言いました。
「では、私のお遣いとして人のために目に見えない邪気邪念の掃除をしてもらうとしよう。そなたの心を信じよう。」
こうして河童はお釈迦さまのお遣いとなりました。
それからというもの、河童は人間の前から姿を消し、二度と目の前に現れることはなくなりました。
というお話です✨
鬼子母神に続く第二弾。
琴の神様から聞いた昔話でした😊
今回は、『土地を見守る神様』のお話✨
今までは、【土地浄化施術】において協力してくれた神様や聖獣や神獣、明王様や菩薩様や七福神様たち等、様々な神様達のお話をしてきました✨
今回は、その土地に根付いている「神様」と呼んでいる方のお話。
氏神様とは違い、その土地に住む人や代々のご先祖様が守ってきた場所には「土地神様」と呼ばれるものがいます。
それは「白蛇様」だったり「龍神」と呼ばれるものだったり色々です。
今回の土地神様は、それらとはまた違った神様のお話です。
この神様は、元々その土地にいらした訳ではなく、この地に住む人でこの先の未来の人々の「先祖」となる者が来るという天からの指示で来られた神となる存在だと言っていました。
姿に形は「人」そのもの。
知らない人がいるな〜なんて思って見てましたが、実は神様だった😆笑
土地浄化施術は、天からの神の指示で始まります。
この日は朝の4時からの施術。
お家を建てられるお客様ご家族皆様には、朝早くから集まっていただき、有難い限りでした。
まだ日も上がらない真っ暗な状態から準備をし、朝日が昇り始める少し前から施術を開始。
既に準備段階から施術は始まっています。
今までの経験上、氏神様やお不動様が先に来ていることはありましたが、何やら知らないお方が土地の真ん中にポツリと立っています。
様子を見にきたご近所さんかと思うくらい「人」😅
集まったご家族もその方の存在に気にも止めないので、知り合いかと思ったくらいです。
でも、実は「見えていない方」だったようです😅
良く良く考えたら、前日に、施術にあたり邪気や邪念が入らないように結界を張ります。
その後には、元々いたもの以外のものは入れないことになっていますが、土地の真ん中にいらっしゃいました。
そして、施術をする際に、神々が入れる様に結界を解きます。
その時に、トコトコと近寄ってきたその方が言いました。
「この土地のご先祖様となられるお方にお力添えありがとう。今日はよろしくお願いします。」と。
普通に「はい。よろしくお願いします。」と頭を下げて作業に入りました。
なんの違和感もなく施術が始まり、気が付いたらその方はいなくなっていたのです。
施術も終わりその方の存在は忘れていましたが、今日までの土地浄化施術において協力してくれた神様のお話を書いてきて「あれ?」と思い出したのがこの方。。。
実は「正真正銘の土地を見守る神様」だったと今気づくという😱💦💦
こんな経験も無く、改めて良い経験をさせていただいたご家族と神様達に感謝です。
ありがとうございます✨
そして、まだ【土地浄化】に関わる神様のお話は続きます😆
『お釈迦さま』という言葉を聞いたことあると思います。
『釈迦如来』とはお釈迦さまの呼び名のひとつ。
「如来(にょらい)』とは、悟り(さとり)を開いた人のことを指した言葉で、人間が悟りを開けば如来になれると信じられています。
悟りを開く直前の修行中の人を「菩薩」と呼び、悟りを完全に開いた人のことを「如来」と呼びます。
真の悟りを開いた人全般を如来と呼び、特定の固有名詞ではありません。
釈迦如来の他、よく知られている如来様に
薬師如来
阿弥陀如来
大日如来
がいます。
そんな『お釈迦さま』に琴が聞いたお話✨
人はひとりひとり自分と他人を分ける。
それは魂がひとりひとり『個』である証。
だが、悟りを開き神なる存在になった時、
人はひとりではなく『皆』となる。
これは『皆(かい)』と呼び、『すべて』となる。
人は姿形が違えど持つものは皆同じ。
同じ体があり言葉を話す。
通じる通じないではなく「言葉」を通じ会話をする。
そして同じく心がある。
心があるから通じ合う。
その心を以て「魂が通じ合う」という。
皆が死して逝く場所には魂がある。
住む場所違えど逝く時間が違えど、同じ大地で生きている。
見た目や環境の違いはあって良かろう。
そこで学ぶことがたくさんあった方が人生は楽しいもの。
苦楽を楽しみ苦楽を喜ぶこと。
なによりも得難い有難いこと。
なによりも生きて楽しむことが至極とはこのこと。
悟りを開いたからといってそこで終わりでは無い。
悟りを開くまでの苦行こそ楽しいことだと思えるだけ。
苦労を乗り越えた時と同じこと。
人にはひとりひとり与えられている苦行がある。
それは喜びに変わる糧でしか無い。
苦労しなさい。
悲しみや辛さを噛み締めなさい。
そこでしか分からない感情から感謝を知ることが出来る。
喜び楽しみを知っているから辛く苦しい。
この感覚を楽しみなさい。
今しか出来ないこと。
生きている今だから感じられることを喜び、
そして目の前の『皆』に伝えなさい。
それが今自らが出来ることであり、やるべきことです。
ということです✨
はいっ‼️
楽しみます❣️
伝えます‼️
ブログで😆笑
『観音様』という言葉を聞いたことがあると思います。
昔話にもお地蔵さまと並んで出てきたり、嘘つきや悪いことをした者に対して、天罰を与える神として出てきたり、苦しみから救いの手を差し伸べる神として登場することがあります。
大乗仏教において特に崇拝されている菩薩の名で、世間の人々の救いを求める声を聞くとただちに救済する求道者の意。救う相手の姿に応じて千変万化の相となるという。阿弥陀仏の脇侍ともなるそうです。by コトバンク
また、観音とは観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の略で、人々の苦しみを除いたりお願い事を聞いたりしてくれる慈悲深い仏様のことです。
そんな『観音様』から琴が聞いたお話✨
神を神として崇めることをやめなさい。
神は皆ひとりひとりの胸の中にいるもの。
手の届かない場所に神はいません。
ひとりひとりの心に住まうもの。
心に悪があれば、それを打ち消す神もいます。
心に闇があれば、それを消す光となります。
心が豊かなれば、その豊かさを自分以外の人に与える勇気になります。
心が喜べば、その喜びを自分以外の人と共有します。
そして心からの思いやりを持てば、それは自分と自分に関わる者たちを幸せにします。
神とはそういうもの。
その神が自分を通して仲間やそれ以外の者たちの心に見えた時、人は「縁」を結び、これを『引き寄せ』と呼ぶものもいます。
縁は自らが持っているものに集まるもの。
気持ちが通じ合うもの
話が合うもの
趣味が同じものも然り
気持ちが合わないもの
話がが通じないもの
気持ちが見えないもの
これらも全て「縁」で導かれ、そこには学びがあります。
どれを取るではなくどちらも自分に必要なもの。
良し悪しは自分が決めるもの。
出来たら良いものを求めるのも、また心情。
心からのことをしなさい。
心から思うことをしなさい。
それが本来の自分の姿です。
ということでした✨
はいっ!やります😆
ブログ書きますっ笑